お寺に鳥居があるのはなぜ?神仏習合と神仏分離

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神社とお寺の違いは「神社は鳥居」、「お寺は山門」で見分けるのかと思っていたら、必ずしも当てはまるわけではないようです。なぜなら、お寺なのに鳥居があるところがあります。飯能市にある通称「竹寺」と呼ばれるところです。なぜ、お寺に鳥居があるのか紐解いてみましょう。

飯能市「竹寺」(医王山薬寿院 八王寺)

埼玉県飯能市に通称「竹寺」と呼ばれる寺院があります。正式名称は「医王山薬寿院 八王寺」といいます。

このお寺は東日本で唯一、神仏分離を免れたためにお寺でありながら、鳥居が建っています。鳥居には「天皇山」の額が配され、注連縄(しめなわ)を張られています。

全体を銅でおおわれた両部鳥居で、茅(かや)で作られた「茅の輪(ちのわ)」があります。これは牛頭天王(ごずてんのう)を祀る神社独特のものです。茅の輪をくぐり心身の清浄を願います。

幾重にも重なった竹の鳥居もあります

境内には観音堂、弁天堂、瑠璃殿(るりでん)という斎場があります。薬師如来の別称、瑠璃光如来から名づけられたものと思われます。灯篭(とうろう)や狛犬(こまいぬ)も置かれています。

鳥居は神社に、観音、弁天、薬師は仏教寺院にあると一般に知られています。

本殿は神社特有の建築様式である千木(ちぎ)と鰹尾木(かつおぎ)もあります。概観は典型的な神社ですが、拝所の上部には、神社特有の鈴ではなく、仏教特有の鰐口(わにぐち)があります。

本殿内部には牛頭天王が祀られています。牛頭天王は薬師如来の垂迹(すいじゃく:仏・菩薩民衆を救うため、仮の姿をとって現れること)です。神仏分離にあたっては、八坂神社(旧祗園神社)のように、本来であれば神社から撤去されるべきでした。

この寺の住職は明治政府が廃止した「別当(べっとう:神宮寺に奉仕する社僧の長)」を名乗ることもあり、線香ではなく榊(さかき)をそなえ、祝詞(のりと)ではなくお経を読みます。壇家も墓地もないので葬儀は行いません。お寺なので氏子もありません。

それはまるで、僧侶が神棚にお経を唱えるようなもので、不思議な感じがします。現代人からみれば、見慣れない光景ですが江戸時代までは、一般的な姿でした。

また、竹寺では秩父には比較的多い神道系の庚申塔(こうしんとう)も祀られており、神仏混淆(しんぶつこんこう:神と仏が混在すること)だけでなく、民間信仰までおおらかに祀られています。

竹寺は山奥にあり、最寄のバス停から急坂を登って40分掛かります。現代でも大変なのですから、交通機関などなかった当時はたどり着くのが困難で人の目に触れにくく、どうやらそれが神仏分離の目から免れた理由のようです。

竹寺以外にも明治政府の神仏分離政策を免れ、現在も神仏混淆のままの寺社は他にもあります。

  • 豊岡稲荷(正式名称:円服山妙厳寺 愛知県豊川市)
  • 物忌奈命(ものいなみのみこと)神社 (東京神津島村)

神仏習合(しんぶつしゅうごう)から神仏分離まで

神社と寺院が混在しているのは神仏習合思想によるものです。それでは、神仏習合とはどういうことか、また神仏分離によってどうなったのかをみていきましょう。

神仏習合

神仏習合とは、外国から伝来した仏教信仰と日本固有の神祇信仰とを融合調和することです。

6世紀半ばに仏教が伝来してから、神社は千年以上にわたり仏教との習合の時代を経てきました。その要因のひとつに神社思想のおおらかさにあります。

神社は本来、自然のあらゆるものに神が宿るという思想が根本にあるため多神教です。もともと複数の神々を祀る風習があったために仏とも違和感なく合祀することができました。

良いものを受け入れる日本的な寛容さがある反面、外圧に弱い日本古来からの国民性も関係していたようです。

仏教は三宝(仏・法・僧)だけでなく、仏教美術、建築技術、医薬知識などを兼ね備えた完成された組織であり、この思想や文化集団を当時の神社思想が対等に迎えることができませんでした。

そして、仏教は戦略的にじっくりと神社思想との習合をはかってきました。

1.まず、神社境内のかたすみに仏教寺院を建てます。→ 神宮寺の建設

2.次に、仏法を守るため、善なる神という考え方を広め、神を仏の守護神に仕立て神と仏の融合を進めます。→ 御法善神(ごほうぜんじん)思想

3.仏は仮の姿として神となって現れる、日本の神も実は仏の仮の姿であると説きます。→ 本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想

このようにして、仏教と神社思想は千年以上にわたって徐々に融合され、神と仏は一体化していきました。

神仏分離

ところが、明治維新によって神仏習合の歴史は幕を閉じ、神仏分離という新たな時代を迎えます。

神社から仏教的な色彩を一切排除し、神社と寺院(つまり、神と仏)を明確に区別することになりました。→ 神仏判然(しんぶつはんぜん)の令

神仏分離の方法は以下のように行われました。

  • 二分割両立

寺社境内と神社と寺院に分けて、それぞれの管理をはっきりと区別する。(神社と寺院が隣り合わせにあることが多いのは、このように二分された結果です。)

  • 一方廃止

境内の寺院または神社のいずれかを残し、他を廃止する。(寺院的雰囲気の神社があったり、寺院境内に末社として神社が祀られていたりするのはこの名残です。)

  • 仏教色排除

神社から仏教的名称や物品を徹底的に一掃する。(例えば、祗園神社を八坂神社と名称変更、祭神も牛頭天王から須佐之男命(すさのおのみこと)に変えます。三王大権現(さんのうごんげん)が日枝神社に変わります。権現像や経典などが焼却、廃棄された例もあります。)

これは世界的にも過去に例を見ない大事業となり、各地の寺院で暴動ともいえる「廃仏毀釈騒動(はいぶつきしゃくそうどう)」が起こり、多くの文化遺産が失われ、僧侶が失職する事態も起こりました。

神社と寺院はこのように分離独立をしましたが、千年を超える習合の歴史は相互の様式に影響を与え、今日に引き継いでいます。

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まとめ

お寺に鳥居はあるのは、かつては神様も仏様も混在していたため、その名残だったのですね。

昔の人なら、なんの違和感もなかったのでしょう。

しかしながら、かつての面影を残したままの寺社が現代まで残っていると、まるでそこだけタイムスリップしたようにも感じますね。

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