東京都板橋区にある「植村冒険館」。
植村直己さんの自宅に保存されていた品々が紹介されています。
植村冒険館『冒険家の押し入れ』開催日程/アクセス

植村冒険館

植村冒険館入口

この看板が目印です
開催期間:令和元年10月4日(金)~令和2年1月21日(火)
休館日:月曜休館 12/29~1/4 (月曜日が祝日の場合は開館し、翌日休館)
開館時間: 10:00~18:00(展示室の入室は17時30分まで)
入場:無料
所在地:東京都板橋区蓮根2-21-5
都営地下鉄三田線 蓮根(はすね・I-23)駅下車 徒歩5分
東武東上線成増駅北口 または JR赤羽駅西口よりバス〔国際興業バス/赤=02系統〕
志村健康福祉センター入口停留所下車 徒歩5分
↓公式ホームページ↓
植村直己と板橋区
1970年(昭和45年)5月、植村直己さんは日本人として初めて世界最高峰エベレストの頂上に立ちました。
板橋区で暮らし始めたのは、この遠征に出発する前の1969年(昭和44年)の夏のことです。
仲宿商店街から一本奥に入った三畳一間のアパートが最初の住まいでした。家具はトランクと寝袋だけ。
冒険から帰ったらまた次の冒険の準備を始め出かけて行きました。
エベレスト登頂をはじめ、北極圏1万2千キロの走破、北極点単独到達など歴史に残る冒険はここ板橋から出発していったのです。
厳しい自然のなかでたったひとり、人間の可能性に挑戦し続けた植村直己さん。
決してあきらめず困難に立ち向かう姿勢と人間味あふれる温かい人柄は、今もたくさんの人に愛されています。
(公式ホームページより抜粋)
ニコン F3 ウエムラスペシャル

ニコンF3チタン/ウエムラスペシャル
ニコンが植村直己さんに依頼されて製作したウエムラスペシャルは2種類あって、ひとつはF2をベースにしたもの、もうひとつは後に製作されたF3ベースのもので、合計3台あります。
この写真のモデルはF3で遠隔操作ができます。これ以前のモデルのときはセルフタイマーを使用していました。
3台のうち、一台はこの「植村冒険館(板橋区)」にあり、もう一台は兵庫県豊岡市の「植村直己冒険館」にあります。
そして、最後のもう一台は消息不明となった植村さんと共にマッキンリーのどこかで眠り続けています。
ウエムラスペシャル誕生秘話
1976年(昭和51年)、北極圏1万2千キロの冒険をしていた植村直己さんは、旅の後半になって全く写真を撮ることができなくなってしまいました。
このとき植村さんが使っていたのは市販の一眼レフカメラで、過酷な使用環境のためにボディとレンズをつなぐ部品が外れて完全に分離してしまったのです。
また、マイナス30℃という厳しい寒さの中では、カメラ本体に使われているわずかな油が凍りつき、フィルムの巻上げができないだけでなく、シャッターを押すことすらできなくなるという不具合が生じることもありました。
このため、次の冒険に備え新しいカメラを探していた植村さんは、北極で自分を取材する報道陣のカメラが問題なく動いていたことに着目し、報道用の機材を扱っていた日本工学(現:ニコン)に相談に行くことにしました。
北極仕様のカメラを作るにあたり、植村さんが出した注文は「マイナス30℃の寒さでも動くこと」と「犬ぞりの激しい振動に耐えたれること」でした。
とりわけ振動については「階段から落ちるような激しさ」ということで、日本工学の技術者たちはトランクに試作品を入れて実際に階段から落とし、壊れた部分を分析し強化していくという方法で改造を加えていきました。
こうした試行錯誤の結果、北極仕様のカメラ「ニコンF2チタン/ウエムラスペシャル」が完成し、北極点とグリーンランド縦断の冒険で単独行を記録したのです。
当時の技術の枠を集めて出来上がったこの北極仕様のカメラですが、改造に要した時間を考えると人件費だけで数千万円にのぼっとたいわれています。
しかし、このときボディに使うチラン加工の技術が研究されたおかげで、次世代の市販の一眼レフカメラにいちはやくチタンの技術が取り入れられるきっかけになったそうで、植村さんの冒険が実はカメラの技術開発に貢献していたとも言えるでしょう。
(展示より抜粋)
「冒険家の押し入れ」展示品

国民栄誉賞 記念品 田村耕一 作「竹林と鷺壷」

イッカククジラの置物

セイウチの牙で作ったけん玉

何の骨で作られたかは不明だが、「どくろ」が掘り込まれたネックレス

セイウチの牙 背骨 クジラの骨(グリーンランドで入手)

内側は毛糸、外側はアザラシの毛皮で作られたミトンタイプの手袋。
北極の村、シオラバルクで作ってもらった。

毛皮製のカメラバック。
植村さんはカメラをトランクの中に入れてそりに積んでいた。
マイナス30度を超える寒さと犬ぞりの振動からカメラを守るために分厚い毛皮が使われた。

アザラシの皮で出来た室内履き。テントの中で使用した。

日頃のトレーニング(ランニング)用に公子夫人に作ってもらった腰につけるおもり。
砂入りで約3kgある。意気込みが感じられるが、数回使っただけでやめてしまったそうである。

「オーバ」の作者である開高健さんから贈られた犬ぞり用の鈴。
昭和52年に開高さんと対談している。

(左)昭和51年5月、北極圏1万2千キロから帰国した植村さんに対し、三木首相から記念品の花瓶が贈られた。
(右)植村さんが昭和59年2月に消息を絶って、その年の「ビッグスポーツ」(テレビ朝日主催)から特別功労賞が贈られた。

植村直己自作のぐいのみ。
五大大陸最高峰の石を細かくくだいて粘土に混ぜて焼き上げたもの。結婚式の引き出物として配った。
植村さんの「五大大陸最高峰」に対する特別な思いが伝わってくるようだ。

植村直己カメラコレクション
(写真手前一番左:Canon7S 1970年に植村さんがエベレストに登頂したとき、世界で初めて山頂からのながめを360度のカラー写真で撮影。そのときに使ったカメラ。
・セーター
常陸宮華子妃殿下からの贈呈品
・とっくりセーター
愛用のセーター。毛糸が太く、ゆったりしたものを好んで着ていた。
・ダウンベスト
愛用のダウンベスト。公子夫人によると、国内のキャンプなどで着ていたそうである。
・ジャケット
南極遠征時に衣服メーカーから提供された化繊のジャケット。内側が起毛になっていて保温性が高かった。
・非常持ち出し袋
板橋区で支給された非常用の袋には大きく名前と住所が書かれている。緊急時に備える几帳面さがうかがえる。
・ショルダーバッグ(打ち合わせ用)
打ち合わせや取材などで都心に出かけるときに使っていたもの。相当のお気に入りだったようで、内部の裏地が傷んでしまっても、公子夫人に張り替えてもらい使っていた。内部の裏地の柄がカバンらしくない生地になっている。
・ショルダーバッグ
愛用の使いこんだショルダーバッグ。愛着をもって大切に使っていたのだろう。植村さんの性格が垣間見える。

蔵書
植村さんの自宅にあった書籍の一部。外国で入手した洋書が全体の約4割を占める。
(レイアウトは実際の保存状態を再現したものではありません)
植村直己さんの活動記録
1941年(昭和16年)兵庫県生まれ。
明治大学入学と同時に山岳部に入り本格的な登山を始める。
1964年から約4年にわたり外国を放浪。
モンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアに登頂。
1970年日本エベレスト遠征隊に参加し、日本人として初めてエベレストに登頂。
続いてマッキンリー(現:デナリ)に登り、世界初の五大陸最高峰登頂者となる。
1972年単身でグリーンランド最北の牟村に入り、約10ヶ月間暮らして犬ぞりを覚える。
1976年春には北極圏1万2千キロの単独犬ぞり走破を達成。
1982年世界初の北極点単独到達、グリーンランド縦断を成功させた。
1982年南極大陸横断を計画するが断念。
1984年2月世界初の厳冬期マッキンリー単独登頂を果たすが下山中に消息を絶つ。
4月国民栄誉賞受賞。
あとがき
東京都板橋区にある「植村冒険館」に行ってきました。
なかなか見られない貴重な品々を見る事ができました。
パネル写真からは、犬だけを連れ単独で行動していた過酷な旅の様子、北極での生活などを知ることができました。
そして何よりも素晴らしいのが植村さんの笑顔。
日本を代表する冒険家も3畳一間からの出発。
そして最後はマッキンリーで消息を絶つとは、まるで映画の世界のようではありませんか。