木綿着物|唐桟(とうざん)の歴史と縞柄の魅力

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木綿でありながら、絹のように美しくしなやかな織物である唐桟(とうざん)。赤縞や浅葱縞が入っていて、日本の織物にはない華やかさを持っています。この唐桟の歴史や魅力についてご紹介します。

唐桟(とうざん)とは

「唐桟」は、桃山時代に外国から入ってきた縞木綿で、藍色を基調とする棒縞の木綿織物です。桟留縞とも奥縞ともいいます。糸は木綿糸を用い、染色は植物染料、縞は棒縞であることが特徴です。

「桟」は「桟留(さんとめ)」の略です。「桟留」とは紺地に浅葱(あさぎ)、赤、茶などの色糸を配した縦縞の織物のことです。桟留はインドの東海岸のサント・トーマス(St.Thomas)という港町の名からつけられたというのが通説です。

「唐桟留」と呼ばれていた理由ですが、この「唐」は必ずしも中国の「唐」を指すものではなく、すべて外国から渡来したものに冠する語として使われていました。一例として、その当時は外国人を「唐人」といい、船来品を売る店を「唐物屋」といいました。

つまり、南蛮船(※)や紅毛船(※)などで運ばれてきたカラフルな縞木綿を総称して「唐桟」と呼んでいました。

※南蛮船:(なんばんせん)室町末期から江戸時代にかけて、南洋方面から日本に来航した、スペイン・ポルトガルなどの外国船
※紅毛船:(こうもうせん)オランダ船の俗称

このような外国産の縞木綿は、木綿糸で織るとはいえ80番から120番位の糸を使っており、当時の日本では紡出できませんでした。そのため、そのような細番手の綿糸を用いた、きめ細かく織り上げられた絹にまさる風合いが喜ばれました。

そして外国産の希少な唐桟を、国産の縞物と区別するために「唐桟」と称したともいわれています。しかし、のちに国内で外国産の綿糸を用いて織ったものも「唐桟」呼ばれるようになりました。

ただし、まったく逆の説もあり、外国産の織物を区別するために、国産の縞木綿を「唐桟」と呼んだという説などがあり、語源については定かではありません。

唐桟の歴史

唐桟が数多く輸入されたのは江戸初期の寛永頃とされていますが、ほぼ時を同じくして後染の木綿更紗(さらさ)が輸入されています。

唐桟や更紗に対してなんとなくエキゾチックで貴重なイメージがあるのは、その当時、わが国にはまだ木綿がなかったので、その珍しい材質とも色美しい布地に対する驚きがあったためと考えられます。

わが国で木綿が栽培されたのは、さらに時代を下り16世紀頃で、やがて江戸中期になると、ほとんど全国的に木綿織物が生産されるようになりました。

唐桟に用いられる木綿糸は、80番手から120番手くらいのものです。(番手は840ヤードで1ポンドのもの。番手数が多くなるにつれて糸は細くなる。)わが国でこのような細い木綿糸がつくりだされたのは明治末、日露戦争後のことで、それも輸入綿によってつくられていました。

この唐桟織りは、江戸時代の寛永年間から天保年間の頃がいちばん流行したようで、埼玉の川越、群馬の館林、神奈川の川崎などでは、当時から盛んに織られていました。

粋な縞模様は異国的な色感、絹に似た風合いが江戸っ子の好みに合い、武士や商人をはじめ、職人や芸人、さらには庶民にまでもてはやされたといいます。

そのため、川越などは唐桟の産地として広く知られるようになり、ここで織られる唐桟は「川唐」と呼ばれて親しまれました。

川越唐桟

江戸時代の万延二年(1861年)のこと。安くて良質な欧米産の綿糸を目にした織物商が、横浜の米館から洋糸を買い求め、船来品の唐桟を模して絹織物の産地、川越で唐桟を織らせてみようと思い立ちました。

川越の唐桟は「川唐」の名でたちまち全国に知れ渡り、大流行しました。ごく一部の限られた人のみのものだった唐桟に、庶民も袖を通すことができるようになりました。

しかし、その人気は長くは続きませんでした。明治26年、川越大火があったころから急速に衰退し、やがて途絶えてしまいました。手織りに固執するあまり、機械織りの安さに対抗しようと、粗悪品を作って評判を落としてしまったのが原因です。

けれども、昭和50年代に西村芳明さんという方が、幻の織物となっていた「川唐」を、機械織りで復元しました。

川唐

本物の唐桟は、ごく細い綿糸を2本づつ引き揃えて縒った糸で織られています。「川唐」も別名「双子織」と呼ばれ、双糸。双糸だと、暑い時は涼しく、寒い時は暖かく、シワが目立たない。加えて絹のようなつや、なめらかな着心地、繊細な縞。それが唐桟の値打ちと西村さんはいいます。

西村さんは高齢のため、自社の工場生産は止めてしまいました。その後は他所の機屋さんに織らせて、川越の呉服店などに卸しています。

木綿でありながら絹のような風合い

唐桟のよさというのは、まず木綿であること。そして木綿でありながら艶やかな絹の風合いがあることです。その秘密は砧(きぬた)にあります。砧とは木のつちで布地を打ってつやを出すのに使う、石や木の台のことです。

機織りが済むと、布を30分ほどぬるま湯につけて、アク抜きをし、それから石の上に紙を敷き、その上に布をたたんで置いて、木槌でまんべんなくたたきます。これを砧打ち(きぬたうち)といいます。

こうすることで、木綿の布地に絹のような光沢が出ます。しかし、砧(きぬた)を打ったままでは光沢がでるというより、光過ぎて木綿の味を殺してしまいます。

そこで、もう一度湯通しをして、少し光沢を落とします。そうすると、絹の艶やかさとともに、木綿本来の風合いが出ます。

縞柄の歴史

  • 縞柄の魅力

縞柄は、どこの国の織物でも取り入れられ、しかも大きな部分を占めています。そして、衣服に限らず幅広く色々なところで使われています。

縞は誰にも好まれます。とはいえ、見た目にいくらしゃれた縞であっても着る人によっては野暮ったくもなるし、粋にも上品にもなります。要は着る人次第でいかようにもなるということです。

織物の縞柄は、とくに日本独特のものというわけでもなく、世界中どこでもあります。どんなに時代が経ても古さを感じさせず、新鮮さを失うことはありません。シンプルがゆえに、生命が長いといえます。

  • 「筋(すじ)から「縞(しま」へ

縞木綿が本格的に輸入されたのは南蛮船によるものです。それまで日本には「しま」という呼称はなく、平行する線のことを「筋(すじ)」と呼んでいました

しかし、南蛮船が多くの縞木綿を運んでくるようになり、これが南の島でつくられた「島渡りの布」であることから「島(嶋)物」と称され、やがて「縞」と呼ぶようになりました。

  • 縞の流行

庶民の手に届くものではなかった桟留ですが、寛永(1624年~1644年)の頃には、江戸で盛んに着られるようになりました。ひとくちに桟留縞といっても、さまざまな変化形がありました。

例えば赤糸入りの堅縞を「奥縞」、紺に浅葱の縞を「青手」と呼びました。ともあれ、そうした新しい織物は多くの影響を与え、縞の流行を生みました。

やがて、この桟留縞を模倣したものが京都で織りはじめられました。これを「和さん留縞」あるいは「京奥縞」と呼ぶようになりました。

唐桟を使用した商品

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まとめ

あまりにも希少で庶民には遠く手の届かないものだった唐桟。江戸末期の開国後から安くて良質な欧米産の綿糸を用いることで、広く知れ渡るようになりました。

夏目漱石の「我輩は猫である」では、ご主人さまの寝室に忍び込んでくる泥棒までが「唐桟の半纏(はんてん)」を着ていたそうで、広く庶民に普及したことがうかがえます。

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