日本のお墓でよく見かける卒塔婆(そとば、そうとうば)。卒塔婆をなぜ墓にたてるのでしょうか。卒塔婆の由来と歴史についてお話します。
なぜ卒塔婆をたてるのか?
卒塔婆は「そとば」あるいは「そうとうば」と読みます。略して「塔婆(とうば)」といいます。
卒塔婆とは、お盆やお彼岸、年間法要のとき、故人の供養のために墓に立てる板のことです。故人への供養の心をあらわすとされています。これを「塔婆供養」といいます。
仏教では塔や寺院を建てることで功徳を積むと言われています。しかし、一般の人は塔や寺院を建てることは現実的に難しいです。そのため、代わりに卒塔婆を立てます。
それでは、なぜ卒塔婆をたてるようになったのか、その歴史と由来をみていきましょう。
卒塔婆の由来と歴史
この塔婆とは、もともとは釈迦の入滅とともに古代インドで生み出されたものです。梵語(ぼんご:サンスクリット語)で「ストゥーパ」、漢語で「卒塔婆」(略して「塔婆」)といいます。
古代インドではストゥーパとは、土饅頭型や伏鉢型(鉢をふせたような型)をした墓のことでした。
#SanchiStupa is famous in the world for being a UNESCO World #HeritageSite. #HHI #touristattractions pic.twitter.com/o9M1YTGx6J
— Heritage Hotel India (@heritagehotelss) 2017年10月6日
釈迦が入滅し、火葬した仏舎利をおさめた塚がストゥーパです。仏舎利とは釈迦の遺骨のことです。遺骨は八つに分骨され、当時仏教が栄えていたインドの八大国に分葬されました。
それぞれ舎利塔をいくつも建て、供養の仕方はたいへんなものであったそうです。仏舎利のほかに釈迦の遺品や遺髪もおさめられました。
ストゥーパは、やがてその周辺を石やレンガでかためるようになり、次第に仏塔の形らしくなっていきました。
また、猛暑のインドでは、遺骨も暑いだろうという心遣いから、塔の上に傘をさす慣習も生まれ、これが多層塔(五輪塔、五重塔など)の原型となりました。
古代インドでは、宇宙は5つの元素(地・水・火・風・空)によって構成されていると考えられてきたため、石塔には、宇宙を構成する五大元素の梵字がしるされています。
その後、この石塔の形は、五大元素に相応する方・円・三角・半月・宝珠の五輪をかさねた五輪塔(五輪塔婆)へと発展しました。
さらに仏塔は単に仏舎利をおさめるだけでなく、仏教の教えのシンボル、モニュメント(記念碑)としても建造されるようになりました。
この多くの塔を中心にあらたな仏教運動が起こり、大乗仏教に発展したといわれています。
五輪塔はさらに角塔婆、板塔婆への変化し、現在よく見られる板塔婆になりました。板塔婆とは細長い板の頭部に五重塔の形を彫ったもので、その下に故人の戒名、経文、死亡年月日が書かれています。
このように、塔がもともと意味するのは仏舎利の納骨でした。現在では簡素化され板塔婆になりましたが、やはり故人の遺骨を象徴することにかわりはありません。
墓石が間に合わないときは角塔婆をたてる
新仏を祀るためにあらたに墓石をたてる場合は、一般的には四十九日の法要、もしくは一周忌のときにあわせることになっています。
ただし、もろもろの事情があり、その時期までに間に合わせられないというときは、とりあえず埋骨だけはして墓石のかわりに白木の角塔婆(板塔婆よりも大きいサイズの塔婆)をたてるのが一般的です。
このように新仏のたびごとに墓石を用意する埋葬の仕方を「一基一霊」といいますが、最近の墓地事情からいくとなかなか実現はむずかしくなっています。
そこで一墓石に「○○家之墓」「○○家先祖代々之墓」と彫って、まとめて埋骨していく「合祀(ごうし)」の方法が多くなってきています。
卒塔婆プリンター
最近は「卒塔婆プリンター」という自動で塔婆に文字を入れることができる機械もあります。
「手書きよりバランスがとれた美しい文字で、筆で書くよりもにじまず、くっきりとした品質」に仕上がるとのこと。
誤字脱字が少なくなり仕上がりもキレイで評判も良いそうです。
関連記事
神社とお寺の参拝方法の違い
お寺に鳥居があるのはなぜ?神仏習合と神仏分離
韓国の昌平(ピョンチャン)にある寺院、「月精寺」と「上院寺」
精進料理とは?精進落としで肉を食べるのはなぜ?
塗香(ずこう)ってなに?どんな原料が使われているの?
なぜ西本願寺と東本願寺があるのか?違いとは?
まとめ
卒塔婆はもともとは土のお墓でした。現在では簡素化され板塔婆になりました。
そして板塔婆はプリンターで印刷する時代となりました。なんだかありがたみがなくなってしまいそうですが、かつては一枚ずつ手書きしていた年賀状でさえもまとめて印刷する時代ですから、時代の流れを受け入れていくほかないようです。